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撮った写真

  • Toshio Inose
  • 2019年6月2日
  • 読了時間: 2分

 私がいなくなったら、これまで撮った写真はどうなるのだろう。

 古道具屋で売りに出ている古写真を見て、ふと思った。

 ほとんどは誰にとっても価値のないゴミ。やれスナップだ、やれ表現だ、写真なんて目の前の事実をとったものでしかない記録だ、とかとか、私がどんなに嘯いても所詮は不用品にしかならない。データだって同じ。中に何が入っていようとHDDごと燃えないゴミ行き。(そのうち古道具屋でHDDごと売りに出されることがあるんだろうか?)経済的に価値があるとされるならば商品としてギャラリーの棚を飾ることもあるだろうが、それ以外は誰が何を撮ろうと、撮った人がいなくなれば不要になるんだろうな。古道具屋の古写真なんてその最たるもので、もはや家族からも見放されてるんじゃなかろうか、な写真のように思う。

 だからと言って撮るのをやめる気はないのだが。

 小学生の頃から写真を撮っているが、ここにきて「これは今後も撮っていたい」と思うものを意識するようになった。言い方を変えれば、そういう被写体に出会った、ということだ。これは、写真を撮る人間にとってどれほど幸運なことか、と思う。そして、その写真たちは写っている人たちから喜んでもらえる。

 何十年と写真を撮っていて、今更ながら小学生の頃の写真の楽しさと喜びに戻っている。

 
 
 

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