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R3年の夏

  • Toshio Inose
  • 2021年8月30日
  • 読了時間: 2分

 8月も終わりだが、今月もコロナは収まっていない。


 フジロックが開催された。感染対策をしていれば開催も参加もOKらしいのだが、観客のほとんどが首都圏かららしい。緊急事態宣言中の県境を跨いだ移動については、どのメディアもあまり触れていない。参加したアーティストが出演したことを肯定するために色々と言い訳を書いているのが痛々しい。どの立場の人も同じ苦境、同じような想いを持って仕事をし、表現をしていることまで想像が及んでいない。フジロックだけが特別ではない。


 8月中も首都圏ナンバーのレジャーと思われる車を北関東の地元でも頻繁に見た。コロナ禍でない夏と比べると少ないのかもしれないが、やはり目にはつく。自分たちの県外ナンバーが地元からどう見られるのかまで想像できないらしい。


 個人の行動は他人には制限できない(だから、行政がいくら要請したところで、県境を越える移動も不特定多数の人が集まるフェスも、仲間内のマスクをしないBBQもなくならない)。となれば、行動の制限をするためには、何が必要なのか。個人的には、罰でなく、個々人の良心と思いたいのだが。


 良心は個人の価値観とは関係ないと思っているのだが、かといって性善説を信じるほど純粋な人生でもなし、個人の生活の基礎に何かを持たねばならないのかもしれない。それは西洋だったらキリスト教で、アジアだったら仏教か儒教などの宗教。日本には神道があるが、これは生活の土台になるようなものではない気がする。明治大正までの日本であれば家族や家庭、地域が価値観や判断の基盤にあったのだが、戦後の西洋化により家族も地域コミュニティも解体されてしまった。

 西洋の個人主義はそのバックボーンにキリスト教があるが、日本の個人主義のバックボーンたる家族はもはや解体されているので、日本の個人主義はいつのまにか利己主義になってしまった。


 自分の利益(快楽や自己肯定の感情を含む)を第一に考える人に、他人のコロナ感染リスクを考えろ、といっても通じない。「コロナ感染は自己責任」と言っている人もいるが、感染後は自己の責任では賄えない。自己責任論を行動の言い訳にする人は、家族、救急隊、看護師、医者、保健師...多くの他人の手を煩わせることになることには想像が及ばない幼稚さがある。


 幼稚さとは利己的なのであり、幼稚な個人の行動を他人はどうすることもできない。

 
 
 

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