写真展示とアルバム
- Toshio Inose
- 2020年3月28日
- 読了時間: 3分
令和2年の初春、昨年の荒神祭の写真を大前神社で展示させてもらっている。見に来てくれる人たちは、ほとんどが地元の人で、荒神祭に参加している人、もしくは家族が参加している等だ。それが良いと思っているし、それが嬉しい。
写真展というと、撮影者が撮った写真を「作品」と呼び、あたかもその写真に「自分にしか撮れない価値」があるように振る舞う人もいるし、「作品」自体を特別な何かだと思い込んでいる人も多い気がする。「この写真には、こんな想いが込められている」「この一枚を撮るのに、途轍もない苦労があった」「この写真から、見る人にいろいろと考えてほしい」など、撮影者が思いつくあれこれを写真に背負わせて、撮影者の想いが重いほど、価値があるような錯覚が認められる。しかし、写真は写真だ。
その一枚にどんな想いを込めようが、その一枚がどんな苦労の上に撮られたかとか、写真の内容を知らない人にとっては何の感慨もない。仮に、その一枚が視覚的、経験的に鑑賞者の想像を超えていても「わぁ、すごい」「すごく綺麗ですね」で終わってしまう。なぜなら、写真は「伝わる」メディアではあるが、「伝わる相手」は選ぶからだ。全ての人に、写真の内容、撮影者の想いを伝えることは出来ない。
だからこそ、昨今の写真表現は理解が難解であることが許されている。鑑賞者を限定せず、不特定多数の世界に向かって個人の表現を発信できる現代だから、世界に埋もれないように他者とは違うことを求めすぎて難解に進むしかなくなったのだ。そして、「分からないことは当たり前です」という前提にたち、撮影者は普段使わない言葉を羅列し、ステートメントという名の「説明文」を付ける。「写真」が発表を前提とした表現になり、それが難解すぎて「説明文」をつけないと伝わらない時代なのだ。「表現」が「写真」を不自由に、分からないものにしてしまった。
私は、祭の写真に関して、身内受けすれば良いと思っている。荒神祭を知らない人に写真を見てもらっても、その感想は決まっている。「勇壮だ」「威勢がいい」「どこでやってるんですか?」「いつやるんですか?」「お神輿、かっこいいですね」そんなもんだ。そして、写真を個性と表現だと思っている「写真を学んだ」人たちには、祭の写真の上っ面から分かることしか見えないので、何も伝わらない。だから、「祭」の写真を撮る写真家たる人たちは、その祭の歴史や伝統、民族的な側面から説明文をつけるのだ。説明文がないと、見る側には何も分からないから。
荒神祭の写真展示は、祭人のアルバムのようなものだ。皆でワイワイ見てもらえれば良い。「◯◯が写ってる」「あの時は、ああだった」「あいつの顔、すごいなぁ(笑)」みたいな、小学校の時、遠足で撮った写真を教室の後ろの壁に貼りだして、皆で笑いながら見て、自分が写っているか確認するワクワクを感じながら見る感じ。
写真に写っている人に見てもらい、酒を飲みながらアルバムを見るように、家族や仲間とその時の話で楽しんでもらえれば、それで良い。
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