動画と写真
- Toshio Inose
- 2021年6月10日
- 読了時間: 3分
ここ3週間ばかり動画を撮ってみた。
結論。
好きなものを撮るに限る。
写真と同じだが、自分が好きなものを撮ることが一番よろしい。
道具から始まって、被写体、シチュエーション、撮影技法、編集アプリ、編集技法まで、色々と選択出来るし、さまざまな表現ができる可能性に溢れている。しかし、どんな良いカメラを使おうが、どれほど便利なジンバルを使おうが、どんなカッコウいい編集をして、どんな素晴らしい音楽を付けても、結局は何を撮ってるかから心は離れられない。言い方を変えれば、撮影の上っ面は何を撮っても同じ。
これは写真にも同じことが言える。
とある雑誌、主にライカのカメラとレンズの記事が多いのだが、そこそこ大きい判型でカラーの作例が載っている。その作例はモデルのポートレートが結構な頻度で使われているのだが、そこが面白くない。やはり、作例はモデルが誰であれ成立するのである。つまり、撮影者にとってそのモデルである必然性が見えないので、「何を」撮ったかに関心が寄らない。「どう(どのレンズをどのような設定で)」撮ったかは、所詮上っ面の話。その真逆にあるmagazineが、ライカの「LFI」だと思う。「LFI」も毎号2/3くらいは写真のページである。日本の雑誌にあるポエムのようなテキストはなく、撮影者が何を撮ったか、撮影者がどう見たか、のような文章が載っており、あとは写真。その写真には撮影者の目線、見方が写っており、やはりそれは作例ではなく「作品」なのである。作例と作品では、どうみても「作品」の方が「強い」。
「どう撮りたいか」よりも「どう見ているか」という、技法よりも視点が分かる写真の方が強いし、見る側に何かを残す。ここが、写真も動画も同じだった。
シネマティックvlogとか流行っており、勉強のために結構な数を見たが、最初の数本を見た以降は何も感じなかった理由がそこにある。色被りしたルック、逆光、モデルみたいな女子が街中や夕陽の浜辺でクルクル回り、女子が夜のイルミネーションを背景に物憂げな笑顔、音楽はどれも似たようなスタイル...「シネマティックに撮りたい」が最優先にあるように見えて、結果、どれも同じに見えるのである。どれも同じに見えるなら、どれにも興味は感じない。私が見たいのは、撮影者がどう見て、どう感じたかが写っている写真であり動画である。
繰り返しになるが、写真も動画も同じだ。撮影者が当たり前のように介在する限り、撮影者が誰であろうと関係しない表現だけの表現には興味がない。
これは、だいぶ古いオリンパスのE-PL1にコダックのアナスティグマットという戦前のシネレンズで撮ったのだが、これ以上の撮影技法も編集技術も必要性を感じなかった。音楽は再考の余地しかないが、曲を作る能力は生まれてからこの方持ったことがないので既存を使うしかない。ただ、この1分に満たない時間が、この日の夕方に過ごした時間を思い返させてくれるだけで、この動画の存在も表現も完結する。もちろん、個人的なものであるところが大切だ。なぜなら、写真もビデオも自分と被写体ののためにやっているのだから。
Comments