木村伊兵衛とcinematic
- Toshio Inose
- 2021年6月21日
- 読了時間: 2分
木村伊兵衛はクラシックではない。
現在、街中でのスナップ写真は作品として認められにくい、と言われる。(私もそう言われた)なぜならば、テーマやステートメントありきの現在の写真界において、ストリートスナップはそのテーマやステートメント、つまり撮影者の意図や思惑を明示しにくい、言葉にしにくいかららしい。しかし、それは違うのだと最近考えるようになった。
木村伊兵衛は1950年代のパリ滞在中に、ブレッソンとの会話の中でスナップの意味と狙いを明確にした。木村伊兵衛は街を撮っているようで、実は、人を撮っていたという解釈がその答えである。自らを「報道写真家」と呼んでいた木村が撮っていたものは、ルポルタージュであり、ドキュメンタリーであった。それは風景でもなく情景でもない、人が介在することで成立する「こと」である。木村のスナップは観る人を驚かせないし、不快にさせて興味を引く飛び道具的な写真ではなかった。こうした木村の写真は結果として時代が写っているが、その写真の本質は、時代が変わっても変わらない「人」と「こと」を写していたのである。
今、写真でも動画でもcinematicという画の作り方が流行っている。PSのLrcにもデフォルトでシネマチックなプロファイルが選択できるようになった。確かに、こうした画作りは面白い部分があることは事実だ。非現実的であり、幻想的でもある。レンズやカメラを通さないと見えない世界であるから、面白いのだと思う。だが、その一枚が、その世界観である必然性は?と問われると、答えに窮してしまうだろう。ビジュアル的なエフェクトは、「何を見ているか」には関係ないから。
しかし、木村伊兵衛のスナップに対する考え方と同様、このcinematicという表現に何かしらの必然性を見つけられる時が来るのかもしれない。木村伊兵衛の写真が古典的であるように見えて、実は時間を超えているのと同様、cinematicも時代に関係なく普遍的な表現になっているのかもしれない。






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