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炎上と雑記

  • Toshio Inose
  • 2020年2月20日
  • 読了時間: 3分

 先日、某新作カメラのPVが炎上した。新発売されるコンパクトデジタルカメラを使っての渋谷でのスナップ撮影の様子を撮った動画だった。撮影者は、向こうから歩いてくる見ず知らずの人(主に女性や外国人が多いように見えた)に対し、すれ違いざまにカメラをその人の顔の前に突き出すようにシャッターを押したり、前方から来る人の進行を妨げるように動いて、避けようとする人の顔を撮っていた。公開直後にその撮影手法に対する非難でSNSが炎上し、即日、メーカーはPVの公開を中止し謝罪文を出した。後日、メーカーはあるメディアの取材に対して、路上での撮影許可も被写体への撮影許諾も公開許諾も取っていないと答えた。

 当事者である撮影者のツイッターはアカウントごと消え、通常の数百倍の書き込みがあった彼のインスタグラムのコメント欄は、その撮影の是非と撮られた写真についてで意見が二分された。「歩いていていきなり知らない男から顔の前にカメラを突き出されて撮影されることへの嫌悪感や拒否感」と、「素晴らしいスナップショットだ。これこそがストリートスナップだ」という二つの意見である。

 私は、前者に同意する。私には、彼のストリートスナップに本人が言うような街の記録も見られないし、ましてや街をはじめとして被写体に対する敬意も愛も感じない。撮影者のエゴしか感じない。一言で言えば、自慰的でつまらない。撮影者を支持する後者の多くは日本人でない人が多かったように読めた。また、日本人でも「スナップショットは街の記録であり、撮れなくなったら写真文化の終わりだ」とか「世界で認められている写真家なのだから良い」などの意見も見られた。確かに、私たちが見てきた街のスナップショットは、許可も同意もなく撮られて発表されてきたものだと思う。しかし、それらが撮られたのは過去の話である。この撮影者を擁護する意見は、過去の思考のまま止まっている。カメラの機能は進歩しているのに、撮影者の頭の中はカルティエ・ブレッソンや木村伊兵衛、森山大道など、昭和のままだ。

 現在に生きる私たちは写真が特別だった時代の昭和的思考を離れ、現代に見合った思考を忘れてはならないと思う。そして、写真は時代を写す、というならば、その時代に適切な撮り方で写真や時代を撮り残すべきだ。一部の写真家がカメラと時代に取り残されている。

 もう一つ、「この撮影者は世界的に認められているから、その撮影方法を許容する」という意見には、開いた口が塞がらない。「世界に?認められてる?だから何?」である。


 某日、院展の展示を見た。日本画も変わっていくらしい。写真的な日本画の多いことに驚いた。観る人に「すごい」「綺麗」などとしか言わせないような、思考する余地がないような仕上がり。別の日、他の美術館で日本画の大家と呼ばれる人の掛け軸を見た。素晴らしいと思った。その縦長の画面の空白に、空と空気と鳥が飛んでいく音すら聞こえた気がした。足元の余白に寂寥感すら感じた。観る側が、イマジネーションを働かせて見られる楽しみは、絵画も写真も同じだろうと思う。

 そして、観る側の想像の自由を制限するかのように、撮影者の狙いしか見せないような写真を撮ることも出来るだろう。撮影者の意図を感じさせないまま、観る側に思い込みと固定観念で鑑賞させる。しかし、そんな写真でも撮影者の意図を見破る(通じる)鑑賞者はいるのだから、やはり鑑賞行為というのも撮影と同等に面白い。

 

 自分を知らない誰かのために、自分の写真をステートメントやキャプションなどの説明文で絞め殺さずに済むような、わかる人だけわかってくれるような写真をやっていきたい。

 
 
 

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